寺名の由来

光圓寺は、阿弥陀仏の光(活動・救済のはたらき・不可思議功徳)が、全てのいのちに圓満している(届いている)ことを弘通する寺院という意味である。これは、光圓寺を創立した淨智が、大内家没落によって戦争の悲惨さと人の命のはかなさを知り、主家の菩提を弔うとともに平和を実現するため、全ての人々が救われてゆく平和の宗教である阿弥陀仏の救済教を弘めようとしたことに由来する。

光圓寺の創立

光圓寺の創立は弘治3年(1557)で、開基は淨智(?~1583)による。長門若松城主大内義隆の家族其苗裔である伊藤鞆負之祐清知が、大内義隆自刃(1551)の後、古領分であった恒見村に蟄居する。弘治3年(1557)に大内家が絶えると、剃髪して淨智を改住。子息の源左衛門允清玄と共に、この地に専修念仏の教法を弘通せんと光圓寺と称したのがその始まりである。天正2年(1574)には、寺号を免許され攝津佛照寺末となる。

御正忌報恩講の荘厳

光圓寺では、毎年11月に宗祖親鸞聖人の報恩講が勤まるのであるが、仏教婦人会会員による供餅が名物となっている。その大まかな手順は、「餅つき」→「型抜き」→「乾燥」→「串刺し」→「色塗り」であるが、仕上がりの美しさは職人のそれであり、光圓寺様式と呼ばれ、その伝統は江戸時代より続くものであると伝えられている。

宗祖650回大遠忌法要

近年では、大正3年(1914)5月11日の宗祖650回大遠忌法要の様子を示す写真が残されている。本堂には溢れんばかりの人々の姿があり、本堂の正面で撮られた記念写真には、300名を超える大勢の方が写されている。その中には、稚児行列に参加したと思われる子供の姿も多く見られ、いかに盛大で賑やかに法要が勤まったかということが、写真からも伝わってくる。

本堂の焼失と再建

昭和34年(1959)8月には本堂が全焼し、昭和44年(1969)4月に本堂再建落成法要が勤修されるまでは、10年に渡って青空寺院であった。しかしながら、その間も恒見公民館を借りて、法要は途絶えることなく勤修されたという。

平成の再建と移転

平成2年(1990)には、本堂が再び建て替わり、4月には慶讃法要が勤修された。しかしながら、その後、北九州市の水害対策のための河川改修工事の話が持ち上がり、創立以来歴史を重ねた土地を離れることを余儀なくされた。平成18年(2006)3月には無事に移転が行われ、平成19年(2007)10月に慶讃法要が勤修された。